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2014年9月に作成された記事

2014/09/19

SONYの無配に思うこと

世界のSONYが無配となった。

私の世代で言うとウォークマンを筆頭に飛ぶ鳥を落とす勢いで世界のデザインと先進技術を牽引したSONYが厳しい現状を迎えている。しかしながら、今迄のSONYの経営内容を見ると今を想像するにやさしい「顧客を軽視した経営」の結果と言えそうだ。

日本の電機メーカーは殆ど同じ体質を有していて、新興国ビジネスが下手と言われる。どのエリアにおいても、統括するのは常に先進国であり、新興国に根づいた形のビジネスモデルが確立できていない。まさしく中国へのマーケティングミスはそれを示している。対して韓国の中国マーケティングは新興国に即したもので受け入れられたということになる。

私は日本の電機メーカーのこの体質を単に経営戦略的なミスだけで終えることはできない。車メーカーは車の致命的な欠陥が人の命を奪うということを製造・開発に携わるものすべてが承知しており、各人の仕事や会社内の様々な経営判断にも緊張感があるのではないかと考える。対して、電機メーカーはどうだろうか。ここで上げる緊張感そのものがやや欠けいたのではないだろうか。携帯電話の開発ミスで音信不通による遭難事故からの死などは十分考えられるが、車の事故に類似する命に直結するアクシデントは考えにくい。近年大型家電が拡販しにくい中、携帯電話の新興国での販売は電機メーカーにとって注目されることであるが、その商品カテゴリーゆえすべての基準がゆがんでしまったのかと日本電機メーカー愛好者として心配するのだ。

SONYの海外戦略の失敗から教えられることは、決しておごらず、地域のお客様目線で商いをするという初心だ。
新規参入が耐えない業界でも、そこに古くから地域に根差し仕事をしてきた会社がある訳で、その会社がやってきたことには何らかの顧客マーケッティングの成功がある。
マーケティング戦略の観点からも、新規参入者は真摯にその業界を学び、先駆者が何をしてきたのかをしっかりと理解してから進むのが賢明ではないだろうか。先進国が開発した技術による良好な使い勝手の前に、価格を含めた数々の要因があるのだと思う。

日本では葬儀業界で大きな変革が起こっているが、まさしくSONYの縮図がくりひろがられようとしている。人の死に関係するビジネスに於いては全国の地域格差、葬儀慣習、文化、宗教などを無視して物事を行なうとおかしな方向へ葬儀ビジネスが向かってしまう。今葬儀ビジネスの変化の仕方を誤ると日本文化や日本人の死生観をも変えてしまい、私達の子供たちが喪主を務めるときの看取りや葬儀式の在り方を変えてしまうだろう。他業界にあるシステムソリューションが葬儀業界に入り込むことは避けられない。しかしながら、安易に葬儀関連システムの構築を目指すのでなく、日本人としての「心」やQOLを理解した言葉やメニューの配慮がないと葬儀式の本意を日本に伝承させることは難しくなり葬儀そのものが崩壊するかもしれない。葬儀の本意はお葬式の祭壇や会葬者の人数などでなく、真摯に故人にありがとう、故人が会葬者にありがとうという場であり、ゆっくりとしっかりとお別れができる式典でなければならない。また故人のQOLの集大成であるべきとも考える。誰であろうが、この神聖なお別れの場を無くすことがないように願うばかりだ。

 
2030年に47万人の看取り場がなくなる年を迎えるにあたり、顧客の葬儀に対する考え方がマスコミなどの影響もあり変り、葬儀マーケットも徐々に変化を遂げる。新生葬儀社への流動も加速だろうし、葬儀システム(仮称)も大きな変化を遂げるだろう。できれば、その根底にある大切なひとが亡くなるということの意味を承知する人がその業界に多く関与して日本文化を守って欲しいと思うのは私だけだろうか。


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