梅花と桜花。選択の幅。
梅と桜の開花は世の中の動きをまるで察知しているように時差をもって訪れる。種によって違うのであろうが梅は凡そ2月、桜は3月下旬から4月である。
花の姿はこれから暖かくなる季節の流れを現すがごとく梅は小さく愛らしく枝から直ぐ花が咲く。遠目ではあられのように可憐であるが、やはり春花でない風情で桜ほど派手さはない。また、開花してもまだ弾けるのではと思わせる佇まいである。一方、桜は日本を象徴する花であるが今やバンクーバーやオーストラリアメルボルン、ワシントンなどでも日本と同じように人々を和ませる花になった。梅との違いは冬で冷え切った人の心を知るように莟から一気に大きな花びら5枚を天に開きその風貌を変える。その美しさや柔らかな風情はまさしく、新入学生、新社会人の祝い花として相応しい。
梅は派手さはないがその引き締まった花のつくりは堅実で確固した何かを感じる。そして、人口的なものとはいえ、梅花は梅干という渋くもすっぱい食べものへと変わる。かめば噛むほどその味は渋さ・酸味を増す。桜は梅とは反対に煌びやかさある花をもち、その後も花時代イメージそのままでサクランボとして甘い食べ物へと変わる。果たして人間が作り出したストーリーなのか花時代の面影のままその一生が続く・・・。人生もどのような生き様を残していくかがとても大事で、人生のプロセスで様々な変革をすることは仕事上、或いは生きていく都合上必要だと思うが、人間基本的なことは変わらず梅や桜のごとく莟から開花、そして実になっても大きくは変わらないものかもしれない。とすれば・・・自分軸をしっかりもって自分らしさをもって人生を楽しむのがよいことなのかもしれない。人間、桜を良しとする種だけでないことを今一度確認し、多様な美徳感を尊いたい。
日本は世界的に見ても勉強国家と言える。勉強をして良い学校に入り、優良といわれる企業に就職することをほぼ美徳とする。このプロセスを逸脱する勉強のカテゴリーを大方の親は認めず小さな子供達の芽を摘み取ることも多い。桜になれと・・・。しかし、景気動向激しい現在の社会情勢で生きるビジネスマンを見るといかがなものであろう。そこには、幼少のころの夢を束縛された大人たちや青年が多くいる。新卒者にいたってはここ数年の不景気でたった1年卒業年が違うだけで就職もできずにいる優秀な学生が数多くいる。幼少から勉強をしてきた子供達が景気という外的影響で優秀と言われる企業に就職できるチャンスがなくなるのはあまりにも納得できない。そして、同時に就職が決らないでいる学生達の社会勉強量の少なさに愕然とする。大学の単位科目の勉強内容が悪いとは思わないが、その勉強のカテゴリーがあまりにも寂しい近世になっているのではないかと感じるのは私だけだろうか。優良企業で就職することが目的になりがちな勉強から、変化する環境にも対応し自分つくりができる勉強を社会や大学全体が教えていかなければならない時代が来ているのではないだろうか。
日本の大手企業は十数年前に最悪の景気を経験し、大手でさえも新卒採用ゼロという企業が数多く出現した。そして、景気回復した凡そ10年後当時採用できなかった年齢層を埋めるべく30才代の中途採用を強化した。しかし、今回の不景気による不採用を企業は十年後穴埋めするのだろうか?それは非常に疑問である。購買欲盛んな消費者人口が減少するのは避けられず、その影響からくる売上げ減を控えて大手企業は中途採用をするのだろうか。それはNOではないか。現在、日本企業の何社かが農業や林業などへ若者を向かわせる仕組みつくりをしているが、そのような類似した取り組みを様々なところで早急にしていくべきであろう。近い将来、東京集中する人々の働き口がなくなり、急速に地方に戻る人口移動が起きたならば日本の中枢である東京は大打撃を受ける。そして、地方にも働き口は無く日本発の不況が再び訪れるように思われる。
不景気の中、ミドル以上のビジネスマンの働く場所が減少しているが人材ビジネスをする人間として少し先の日本を見て地方も含めた職場開発を今からしていかねばならないと感じる。そして、働き手は首都圏や大都市に執着しすぎない幅をもった人生設計も有りだと思う。
写真は通勤途中で携帯撮影(開花)
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